煩悩の一切ない、清浄で真っ白でうつくしい牛[うし]で、自分自身のこころの極地のありさまがかたちになったもの。
禅語にあるもので、こんなことを求めるようなことは禅を求める者のすることでは無いというのが本来の意味あい。「地蔵種田」に「我衲僧家慵看露地白牛」などと用いられてたりもします。俗語や戯文で用いられると、これらを下敷きに「無価値だが高級思想あつかい」や「理想だけの存在」との揶揄として用いられたりも。
和漢百魅缶│2021.11.08
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