鯰絵いろいろ

  鯰絵(なまずえ)は、安政2年(1855)江戸に起きた大地震の直後に数多くつくられた錦絵(にしきえ)で、地震を起こすと言われていた地面の底に住んでいる大きなナマズ(地震鯰)を、地震そのものにみたてていろいろな形で描いたものです。地震に対するおそれや不安をやわらげたり、地震後の生活に笑いを添えるような役割を果たす印刷物として、ひろく製作されていました。

  ここでは、その概要をまとめております。ご参考の一助となりますれば。

鯰絵の型

  地震を起こすと言われていた地面の底に住んでいる大きなナマズを、地震そのものとして、いろいろな形で描いていますが、おおまかに分けると次のようなものがあります。

要石(かなめいし)でナマズを押さえる。
  要石(*1)は鹿島神宮にある石で、地面の中にめりこんでいる部分がとんでもなく巨大で、地面の底に住んでいる大ナマズを押さえ込んで地震を起こさせないようにしてる、と言われてました。

神馬がナマズを蹴散らす。
  地震のとき、倒れた家の中で助かったひとの着物に、馬の毛みたいなものがついていて、これは伊勢の御神馬がたすけてくださったんじゃ! という噂があったりもした事を引いたもの。

神様がナマズをこらしめる。
  鹿島神宮のかみさま(たけみかづちのみこと)などが要石や剣をふるってナマズを退治しているもの。

ナマズにわび証文をかかせる。
  神様や人間に対して、「もう暴れません」といった事を書いた証文(*2)をナマズが書いているもの。

ナマズをかば焼きにする。
  地震を起こした地面の中の大ナマズを、神様たちがさばいてかば焼きにしてしまうというもの。

ナマズがひとだすけをする。
  地震で崩れた家などからナマズたちが遭難者を救助してるというもの。

いろんな職のひとがナマズをこらしめる。
  地震によって業務がまったく困難になったり、お客がなくなってしまった職業のひとたちがナマズを取り囲んでこらしめたりしているもの。

ウナギや別のナマズにこらしめられる。
  おなじ川魚でかば焼き仲間(?)のウナギたちや、地震を起こしてない別のナマズたちにしかられるというもの。

  また、そんな絵の型がひとびとの間で定着していくと、地震をかたちにしたナマズ自体が復興したあとの江戸のひとびとの一面を演ずるようにもなって、大金持ちから取ったお金をばらまいたり、色街(*3)に遊びにいったり、家や蔵を建てる工事をしたり、大工や左官や材木屋などと酒盛りをしたりするようになっていきました。


*1 同時期に出された薬の広告めかした地震の戯文に「要屋石蔵」(かなめやいしぞう)という名前で出てたりもします。
*2 (鯰絵・地震のまもり)曰く 「是より日本の土地をまもりいかなる時候ちがひにてもこのたびのごとき事はもうとう仕らず」
*3 吉原や深川なども地震の被害にあっていて、仮宅という店舗で営業していました。その仮宅を描いた鯰絵が残っています。

鯰絵の戯文

  鯰絵は、一枚の画面の中がほとんど絵だけというものもありますが、地震の被災地や街の状況、経済の諷刺を記した文や、それらを折り込んだ戯文や歌などが絵といっしょに刷られている形のものも数多くありました。(鯰絵以外のかわら版のようなものには多い)
  これらは混乱時の情報の伝達や、娯楽の提供としての印刷物としての要素のひとつで、安政の大地震が起こる以前から火事の状況を知らせるかわら版や、街のうわさや珍事件を刷り出した錦絵などに使われていた手法が大いに活用された結果でした。

わび証文
  ナマズにわび証文をかかせる絵の型が使われているものに使われているもので、当時の契約書の書式にならいながら年月日、地名や人物名を地震にちなんだ語呂合わせでそれらしくしたものにしたり、「災害は起こしません」とか「すぐ直させます」とか「五穀豊穣を誓います」とかいう事を約束したりしています。

合戦記
  いろんなものに『太平記』や『三国志』や『源平盛衰記』みたいな合戦をやらせる形の戯文(*1)に、「ナマズや災害」達と「鹿島のかみさま」達をあてはめたもの。大道散人(仮名垣魯文)の『鯰太平記混雑ばなし』では地面の底の牢屋に入れられた「鯰ぬら九郎水底揺高」(なまずぬらくろうみなそこのゆれたか)がむほんを起こして暴れるものの、神様達に平定されています。


▲『鯰太平記混雑ばなし』…ナマズのいでたちいかにと見てあらば

取り組み
  地震にまつわるいろんなものをおすもうさんの名前のようにして(*2)、その取り組みを番付のような表にしたり、絵にしたりしているもの。めずらしい取り組みでは、前の年(1854)に再び日本へやって来ていたアメリカ合衆国のペリーとナマズとを取り組ませている戯文などもありました。


▲『安政二年十月二日夜大地震鯰問答』…ペリーさんがココアみたいな色

歌&俗曲
  なにか事件が起きたときにそれを読み込んで新しい歌詞がつくられてた口説節(くどきぶし)(*3)やあほだら経・ちょぼくれなどをはじめ、江戸のひとによく歌われていた浄瑠璃・清元・常磐津・新内などの替え歌も多く鯰絵には載せられていました。すでに曲に合わせた替え歌が数多くつくられていた大津絵節(おおつえぶし)(*4)も地震のことを読み込んだ歌詞がつくられていて、もともとの歌詞にも入っている「ひょうたんなまずを押さえます」(*5)という大津絵の画題も広く応用されました。


▲『どらが如来世直しちょぼくれ』…ちょんがれ坊主になったナマズさん

▲えびす様は神無月(10月)に出雲にゆく神様たちのおるすばんをすると言われてたのでよく登場します

引き札
  お店の広告(*6)、薬の効き目(*7)、寺院の開帳(*8)、変なみせもの広告(*9)、などの形式で書かれているもので、地震やナマズが商品になったり、病名になったり、ミョーな仏様や寺宝、怪獣奇禽にされたりしています。


*1 古いところでは、鳥たちの『鴉鷺合戦物語』や果物たちの『菓争い』など。
*2 東「大鯰」西「揺出し」、東「野宿山」西「すきが原」、東「小便」西「小鞠山」といった具合。見立て番付の発展型。
*3 くどき。三味線などの伴奏にあわせて七・七の形式などで物語を歌うもの。かんたんにいうと八木節なリズム。
*4 「げほう梯子ずり雷太皷で釣りをする」など大津絵の画題を並べた歌が元歌だったのでこの呼び名に。明治まで続く人気曲。
*5 おさるさんがナマズをひょうたんで押さえてる「鯰に瓢箪」の絵。禅画からの転用。
*6 鯰の家族がお菓子を食べてる鯰絵だと、茶店の注文表めかして「まるやけ土ぞう煮」や「きも玉ひやし」などの料理名が。
*7 『安政見聞誌』(1856)にも転載されている『妙ふり出し』では、「がたがたふるえるによし」という薬効と瓢箪鯰の招牌が。
*8 『出現苦動明王』では不動明王をもじりかえた苦動明王(くどうみょうおう)という地震雷火事親父をぬえ合成した御損像。
*9 『上方震下り瓢磐鯰の化物』では土蔵の体や柱の足の生えた鯰の怪獣が要石につながれています。

鯰絵の径路

  鯰絵と呼ばれているものは、安政2年(1855)の10月2日に起きた安政の大地震のあと江戸で売り出されていた印刷物です。多色刷りの錦絵のかたちでかなりの数が製作された事が、残っている作品の種類の多さからわかっています。
  地震のあったつぎの日の早朝、やって来た版元に頼まれた仮名垣魯文(*1)が立ちながら『老松』(おいまつ)(*2)の歌詞に地震を取り入れて書いた『老なまず』(*3)という錦絵や、2日たった10月4日(*4)には品川屋久助などの版元が地震の情報(被災した町名などを記したもの)をのせた一枚刷りを売り出したのが、地震直後の最速印刷物でした。
  ひと月後の11月2日に至るあいだに100以上(*5)もこの手の印刷物は出来ていて店や道ばたで売られていたそうですが、行事名主(*6)を通していない商品だったため、多くはすぐに町奉行所から板木没収のお沙汰がありました。しかし、11月10日ごろには種類も400(*7)を超えていて、12月に大がかりな板木没収が行なわれるまで、半ば徳川幕府の取り締まりは追いつかない状態だったようです。

  
左▲『老なまづ』…まだナマズが人間(幇間) 右▲『鯰の流しもの』…えびす様にツカマッタ。

  この400種類以上、江戸で売られていたという地震に関する印刷物のうちの大きな一角にあたるのが鯰絵と呼ばれているもので、絵草紙の作者としても知られていた笠亭仙果(*8)が地震の直後から11月16日までのことを書き留めている『なゐの日並』のなかには、「画の中にてはかしま(*9)の御神像をあまたの人拝する画と、くさぐさの人ども大なまづをせめなやますかたぞはやく出て、うるる事おびただしといへり。」とあるように、地面の中に住んでて地震を起こす、と考えられていた大きなナマズを画題にした絵が大量に描かれてゆきました。
  これだけの種類の、こういった錦絵が売り出されたのは江戸時代の中では安政2年だけで、あとにも先にも無い規模(*10)でしたが、これだけの種類が売り出されたのは、それ以前の時期にくらべて錦絵や絵草紙をつくって販売する版元(地本問屋)の数が増加(*11)していたことも手伝っていたようですが、情報のとぼしい中でこれらの鯰絵などの地震に関する印刷物を買い求めて、安心や娯楽を得ようとしていたひとびとの需要というのも、また大きかったようです。


*1 仮名垣魯文(1829-1894)戯作者、新聞記者。当時は瓦版の戯文が本業。主な作品は『安愚楽鍋』、『西洋道中膝栗毛』など。
*2 常盤津の曲。「そもそも松のめでたきこと万木にすぐれ」を「そもそも鯰の荒れたること磐石に押され」という具合に替えてます。
*3 野崎左文の『仮名反古』にはこれの売上げがよくて、直後に魯文がほうぼうの版元から依頼を受けた、とい話を載せてます。
*4 笠亭仙果『なゐの日並』より。品川屋久助の「地震火事方角付」を筆耕の梅素亭玄魚が書いた様子などが記されています。
*5 笠亭仙果『なゐの日並』曰く 「いやますますほりもしうり出しもして、品かず百数種にあまる。」
*6 出版物を売り出すときには、このお役目にあたる名主さまと地本問屋組合のひとから改印をうけないといけませんでした。
*7 笠亭仙果『なゐの日並』曰く 「うる中へ新板をくばる、彫工にあつらふるものあり。今は四百種におよぶべし。」
*8 笠亭仙果(1806-1868)戯作者。二世柳亭種彦。主な作品は『筆廼海四国聞書』、『足利絹手染紫』など。
*9 鹿島神宮のかみさま。この神社にある要石が地震を起こす地面のなかの鯰を押さえてる、と俗に言われていた事から。
*10 文久2年(1861)江戸でハシカが流行った時、鯰絵に似た錦絵が多く売られましたが、大部分は改印のある正規出版でした。
*11 地本問屋は天保12年(1841)に29件でしたが、嘉永4年(1851)には120件以上の店があらたに加わっていました。

麁編 ■ 氷厘亭氷泉

背景 ■ 一寫ヨ芳幾(1879)

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